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未来の地域のために、人とつながり続ける

2026/08/10 14:00

―――学生時代はどのように過ごしていましたか?

小畑 中学生の頃はバレーボール部に所属していましたが、高校に入ると授業時間が長く、部活動を続けるのが困難であったため、一度離れました。その代わり、当時はバンド活動に熱中していました。流行りでしたから。
大学に入ってからは、また改めてバレーボールを始めました。身体を動かすことが好きだったことと、音楽は、例えばギターであれば、一人でも続けられると思いまして。また、チームスポーツが性分に合っていたんだと思います。それで『やっぱりバレーボールをやろう』って。

―――大学卒業後の進路をどのように考えましたか?

小畑 私はひとりっ子でしたし、大学3、4年生で就職活動をする頃には、『家業を手伝おう』『父を手伝おう』という思いはありましたね。他の選択肢はあまり考えませんでした。当時、私たちの世代の人数は多く、就職も決して楽な時代ではなかったですから。

―――入社後はどのような仕事をされましたか?

小畑 大学卒業後は、現在の友愛ビルサービスに入社し、修業のために東京の大手ビルメンテナンス会社へ出向しました。出向先の社員の皆様には温かく迎え入れていただき、大変お世話になりました。都内営業所に勤務し、約1年間、病院やオフィスビルなどの現場で清掃業務を一から学びました。始発で現場へ向かう日々の中で、資材や作業内容を覚えながら、現場従事者の一員として一通り対応できる基礎を身につけました。そして、「私たちが、お客様に提供するのは単にきれいにするという作業ではなく、日々継続して提供する維持管理なんだよ。」という、当時の主任さんに教えていただいたことは、今も心に残っています。業務は現場での作業だけでなく、時には、営業所にて指導を受けながら見積や資料の作成をしていました。
発注を受け、受注から契約、作業、請求までといった一連の業務フローに沿って、各帳票類の作成にあたりましたので仕事の流れを体系的に学ぶ貴重な機会でした。

約1年間の出向を経て友愛ビルサービスに戻りましたが、出向時を通じて学んだ多くのことは、その後の仕事の土台となりました。

―――友愛ビルサービスに戻られてからは順調でしたか?

小畑 戻った当時は、スタートしたばかりであった県内コンビニエンスストアの業務が中心でした。1日2〜3店舗の、床面洗浄やワックス塗布、バフ掛けなどを限られた時間の中で行う業務でした。また、新店オープン対応や既存店舗の定期作業を昼夜を問わず行っていたように記憶しています。
その業務の中でワックスの塗られた床面の光沢度の管理など数値化された品質管理にも触れる機会があり、作業の精度を客観的に捉える視点の大切さも学びましたね。夜間作業や長時間の移動を伴う業務も多かったものの、若い時期で体力もあり、特に苦には感じなかったです。

コンビニエンスストアの業務以外でも、ビルのガラス清掃・カーペット清掃などもあり、現場は県内全域の広範囲にわたり、移動距離も長い業務でしたが、チームを組んでの対応でしたので、お互いよく話し合い、助け合いながら常に円滑に進められるように努めていました。
出向時を含めて当時を振り返りますと、現場で手を動かしながら、仕事の仕組みそのものを学ぶ時期であったと思います。また、実務を通じて現場力が強く養われた時期でもありました。

―――その後、現場の経験を経て、どのようにマネジメント側の仕事に移っていったのでしょうか?

小畑 父親の勧めもあり、北海道札幌のホテルでドライシステムの清掃技術を学ぶため、約3週間の泊まり込み研修を受けました。水をほとんど使わず、ポリッシャーと各種パッドでワックスを削りながら仕上げる手法で、当時としては環境にも配慮した新しい清掃方法でした。

改めて技術を学び直すような期間で、マネジメントに入る前に、もう一度現場技術をしっかり身につける機会となりました。実際にこの手法はその後、いくつかの現場にも取り入れられ、ワックス管理の考え方そのものも変わっていきました。ただ、こうした新しい手法を別の現場に水平展開していくことや、また、導入時のコスト的な負担を経営的にどうクリアしていくかという点では難しさもあり、どんなに技術としては良いものであっても、運用や定着には課題が多かったように感じています。

その後はマネジメント側に移り、ISO9001の取得などにも関わりました。当時は業界全体が品質や環境マネジメントの国際規格取得が進んでいた時期で、入札の条件にも関わるような流れがありました。その後、総務や経営企画にも関わるようになり、現場から管理、企画へと業務の幅を広げていきました。

―――本業とは別に青年会議所における活動もされていましたね?

小畑 青年会議所(以下JC)には1999年に入会しました。父親の勧めもあって秋田JCに入ったんですけど、当初は地元での人脈づくりとか、仕事にもつながるだろうという感覚でしたね。

2010年からは秋田での活動を超えて日本JCという全国組織に力を注ぎました。

全国の活動の中では、同世代の各地域、そして異業種の方々とも、たくさん出会う機会があり、そういう意味では、大きな刺激になりましたね。JCは単なる交流団体ではなく、地域づくりを通じて挑戦し、自らの可能性を大きくする活動が主なので、そこでの経験を活かし会社にフィードバックすることもたくさんありましたね。

40歳でJCを卒業して、地元のビルメンテナンス協会他、経済団体に活動の軸が移っていきました。今は様々な地域活動が中心になっている感じです。
結果としてJCに14年間所属しておりましたが、私にとってかけがえのない時間となりました。

―――最近は仕事以外でどのような事に力を入れているんですか?

小畑 今はサッカーJ2リーグのブラウブリッツ秋田の後援会長を務めています。後援会は210社を超える企業と約30名の個人会員で構成されています。2016年の設立から、本年で10年目。秋田JCで苦楽をともにした仲間たちを中心に、活動しています。トップチームを含めクラブを支えることが大きな目的ですが、ホームゲーム時に相手チームサポーターへ、歓迎の意味と秋田の魅力を発信する意味で、秋田の産品をプレゼントする「おもてなし事業」など、コツコツと活動を継続しております。

もともとサッカーが好きだったわけではなく、「これまでの縁がつながった」と感じています。Jリーグが取り組む「百年構想」の考え方、地域をつくっていくっていうところにものすごく共感したんです。

また、ブラウブリッツ秋田がサッカークラブチームとしてだけではなく、地域における課題に取り組む姿勢にも感銘を受けています。人口減少がもたらす子どもたちの部活動がなくなっていく問題や、スポーツの力による地域の活性化等。私にとってクラブを応援すること自体が、地域に変化を生むことにつながっているのだと思っています。

今後もスポンサー、そして後援会として支援しながらも、明るく夢のある、そして、希望のある未来の秋田を目指して、より大きな支援ができるように取り組んでいきたいと思います。そしてJCでもそうでしたが、一人出来ることは限りがあります。大切な仲間とともに、より大きな力でサポートして参りたいと思います。

―――今後、秋田のビルメンテナンス業界や会社をどのようにしていきたいと思いますか?

佐藤 秋田市はまだ一定の基盤があるものの、県内25市町村全体で見ると地域ごとの差が大きく、特に周辺部では税収の減少や人口減少の影響が今後さらに深刻になるのではないかと感じています。すでに子どもや若い世代の流出が続いており、秋田県全体でも年間で数千人規模の人口流出が起きている状況で、この流れは日本全体の傾向ではあるものの、秋田や東北はそのスピードが特に速いと見ています。

こうした中で会社としては、劇的な解決策というよりも、まずは「丁寧な仕事」と「信頼の積み重ね」を大切にしていくことが基本だと考えています。人手不足や外国人労働者の活用といった変化もある一方で、創業から40年余りの企業として、理念やビジョンを改めて明確にし、それを軸に事業を続けていくことが重要だと思っています。

また、働き方についても、フルタイムに限らず1日1〜2時間でも関われるような柔軟な働き方のスタイルをつくり、少しでも多くの人が現場に関われる仕組みが必要です。現場はパート社員が多く、70代でも働く人が珍しくないため、長く働ける環境づくりや健康管理(熱中症対策など)も重視しています。

一方で課題としては、高齢層のモチベーション維持があげられます。「自分のため」だけでなく「この会社を10年、20年、そしてその先まで」という意識を持ってもらうことが肝要だと思っています。経営層から直接強く言うことは憚られる分、現場や組織全体の空気づくりが重要になると感じています。

最終的には、地域全体としても「どうすれば秋田を少しでも元気にできるか」という視点で、現場に根ざした形で貢献していきたいという考えでおります。